たぬきケーキを共に

ずっと水底から眺めている

信ぜよ、さらば救われん

まだまだ残暑が厳しくてどうにも外出が思うようにできない毎日、気が滅入るね。

 

ここにいろいろ書き込む以前は、日記ぽいものを大学ノートにガシガシ書いていたことがある。

日記ぽいもの、と言っているのは、書き始めた頃は過去イチで不安定な時期だったこともあり、遺書を書くつもりだったのがだんだん日記ぽくなってきてしまった、という背景がある。

 

あの頃を振り返ると、「あの時死にに行かなくてよかった」なんて思える時期もあったけれど、最近はまた沈みがちであの頃に近いテンションになってきてるなと感じる。

こうなる兆候を書き留めておけば今後どうにか対処できるだろうか。よーし、嫌だけど今後のために頑張れ。

 

・ため息が格段に多くなる

・全てにおいて投げやりになる

・↑の延長で、洗顔や入浴などを怠る(食事もまともなメニューではなくなる)

・どんどん動けなくなってくる(物理的にも精神的にも)

~Y O U   D I E D~

 

あーー、ざっくりと挙げてみたはいいけれど典型的な兆候すぎて嫌だな。でもこれを自覚したとて、当事者になってしまうとなかなか抜け出せないのが恐ろしいところ。

しかも、あらゆる場面で言われた「自分でなんとかしろ」という教育方針によるところなのか、人に頼ることができないから悪化するときはどんどん悪化してしまう。

もしかしたら、仮に誰かに手を差し伸べられたとしてもそれを素直に掴まず、なんならその人の目の前で全て終わらせるのを見せつけようとしてしまうかもしれない。それはさすがに最悪すぎる。

 

そうしてしまいかねないと考えるのは、私にはみじめったらしい被害者思想が残っているから。今考えても不条理な理由で怒られてハンストするも無視されたままだったあの時の私が、いまだに斜め後ろからじっとこっちを見ている気がする。

今も、二階のエアコンもついていない蒸し暑い部屋で土壁をガリガリ削りながらこっちを睨んでいる気がする。

逆張りに逆張りを

ほんのり朝晩が涼しい日が現れ始めたね、いかがお過ごしですか。

 

そろそろ大学の長期休暇が終わってしまうけれど、この夏もほとんど家に引きこもってしまった。ほんのり後悔すれどももうどうしようもない。

SNSを見ていると各月でやりたいことをまとめて挙げている人がいる。目標とかではなく、「やれたらいいな」の感覚で考えてみたら案外気楽にいろいろできちゃうかもしれない。便乗して私もちょっと考えてみよう。

 

9月にやれたらいいなと思っていること

・読みたいリストにある本を読む(できれば図書館でブラウジングも)

・ウォッチリストにある映画をレンタルして観る

・ずっと気になっているあんこ屋さんの塩豆大福を食べる

・ヨガマットを買ってストレッチから始める

・ネイルを二週に一度を目安に

・スタバのおさつフラペチーノ飲む

・東北旅行の計画を立てる

 

だいぶ「それ」っぽくなってきたな。何とは言わんがちょっと寄せすぎたかも。

 

こういった「やりたいこと」は生存のための諸欲求とは違って、日々何かしらの影響を受けて刺激される欲求だと思っている。

しばしば「これって本当にやりたいことなんだろうか」なんて思ってしまうこともあって、逆張りオタクの嫌な部分が出ているなーと思う。

だいたいこの文体もよくいるツイッタラーと変わらないんだし、「自分はそういう流行りには乗りませんが?」みたいなノリはいいかげんやめにしようと思っている。

自分が取り入れているあれやそれは「いいな」と思ったから取り入れているわけで、その「いいな」と感じた自分の感性に逆張ってもしょうがないんじゃないかな。一生付きあっていくのにそんな面倒くさいことしなくても…と呆れるようになってきた。

 

没個性の話題にも関わってきそうだけど、逆張ることで得られる個性なんてしょうもないものなのかもね。その辺の本とか記事とか読んでいろんな人の考え方に触れてみたいところ。今月中にやるかは別として。

全てを見透かせたなら

私は都合の良い人間として認識されることを恐れている。

 

ろくに外に出ず刺激のない生活を送っていると、どうしても自分の内面にばかり目が向いてよくない考えを巡らせがち。まさしく今がそのピークにあるっぽいから、ここに少し吐き出しておく。

 

大好きな作品の1つである米澤穂信作の古典部シリーズの中で、主人公折木奉太郎が省エネ主義をモットーとするきっかけとなった話がある。ざっくりと言えば、都合良く人に使われていたことに気がついてしまった、ということにあるんだけど、私も昔はそっち側の人間だった。

 

たとえば、小学生時代。特に家が近所であるとか仲が良いとかといった関係性ではない子に、中学校関係の諸々の手続きなんかの説明をするよう先生から言われたことがあった。

そして一番苛烈だったのは中学3年生。クラスにはいわゆる保健室登校者が3名もおり、なぜかその子たちの給食を運んでやったり、修学旅行でも一緒に班活動をするように仕向けられたりしたことがあった。

それについて担任から直接事情を説明されることもなく、当時の馬鹿な私も何も訊かず付き合っていた。

振り返ってみると、もっとそんなことがあったような気がして気が滅入るが、すべてに共通するのは「何か引っかかりを覚えた時に何も行動に起こさないこと」、そして厄介なのが「頼られることに快感を得ていたこと」であると思う。

 

1つ目については、引っ込み思案で波風を立てたくない性分が災いしていたが、最近は意識的に行動に移すようにしている。具体的には、アンテナを張り巡らして何かが引っかかったら一度自分の中で許容できることか否かのチェックをした後、許容できない、もしくはしたくないと感じたら断るようにしている。

そんな風に行動できるようになってきたのも、頼まれごとを断って終わってしまうような関係性であればその程度の関係性だ、と諦めがつくようになったことも影響しているのかもしれない。おかげで当時より人間関係ががっつり希薄になってしまったけど、凪のように穏やかに過ごせてきている。

 

厄介な2つ目については、上記の通り頼まれごとを断ることは人間関係の断絶、くらいに思っていた部分も影響していただろうし、過度に自分の存在を認めてもらいたがっていた部分もあったんだろう。いわゆる狭義的なレゾンデートルってものだけど、こんなもの生きていく上で別になくてもいいんじゃないかな。

仮に頼まれごとを全て断らない人当たりの良い人間としての存在としてのそれが達成されたとして、その存在は自分自身のためになるかといったら恐らくならないだろう。それは奴隷に近い存在でしかない。

今は、あんまりそういったものに囚われずに、瞬間の気持ちに素直になりたいというムーブがきているから、なおさら他人のためになんか身をやつしていられない。

そういうわけで、貴方の期待(退屈?)に応えてはあげられないというのが、私の回答になります。

一瞬間の自分を捉える

夏のレジャーを楽しまなければと、さながらタスク処理のようにせっせこ花火大会やお祭りに参加している皆さん、お疲れ様です。ここらで少し休んでもバチは当たらないと思います。

 

先月に図書館で予約した本がなかなか返却されないのか、貸出可能のお知らせが来ないままそろそろ一か月を迎えようとしている。ジブリの最新作の原著と噂される本なんだけど、観たときの記憶と情熱が薄まってしまいそうなので微妙に困っている。

 

この夏は本をいっぱい読むぞなんて息巻いていたものの、図書館に行く予定がずるずる引き延ばされていることを理由にまだ一冊も読んでいない。今後の人生もきっとこんな感じでなあなあに過ごしていくんだろうと思っている。

 

読書にせよなんにせよ、私は一度感情が湧き上がった瞬間に行動に移さなければ、その激情はあっという間に劣化してしまう。きっと感情の鮮度が落ちやすいんだろうな。本当はじっくりと段階を踏んだりして慎重に生きたいけど、もっと刹那的な生き方を良しとして受け入れられたらと思う。

 

昨年ごろからあちこち出かけた旅行を振り返ると、事前に綿密に立てた計画に沿って達成していく楽しさよりも、偶然出くわしたお店に立ち寄ったりマップに頼らず適当に散策したりしたときの高揚感の方が印象に残っている。そういうところからも準備を入念にしていくより、直感的に物事を決めていく方が性に合っているのかもしれない。今後も自分のそういうところを少しずつ自覚していって修正し続けるんだろうから、「自分らしさ」を頑として主張するには早すぎる。

そう思うと、一生かかっても確固たる「自分」が完成されることはないんだろう。一生を添い遂げる自分のことですら真の意味から理解できることがないのなら、他人のことなんてなおさらのことで。人の内面のことなんてどうせ分からないんだしな~というマインドで付き合っていくのが吉なのかもしれない。

 

堂々巡りのしなやかさ

梅雨も明け、これからしばらくは果てしなく暑い日々が続いていく現実をぼんやり受け止めている、ようで受け止めきれていない皆さん、こんにちは。

 

猛暑日となると、天気予報の太陽のイラストが見たことない凶暴さを秘めた禍々しいものになることに最近気がついた。マリオ3に出てくるあの太陽への嫌悪感にも似た感情がふつふつと沸き起こってくる。あいつだけサングラスしているのもちょっと癪だ、眩しさの根源はお前自身なんだからサングラスの意味はないだろうし。

 

最近は穏やかに一日を過ごしていて、大学も週1だから実家で猫とのんびりしている日が多い。幸い昼夜逆転はしていなくて、運動不足が危ぶまれるくらいで特に不自由していない。

こんなのんびりできるのもあと僅かかもしれない、と思うと不安にもなるけど、この自由な期間が不安を増幅させているのは否めない。思い返せば、長期休暇とか、コロナ禍の生活で誰とも関わらず引きこもっていた時間の方が精神的には不安定気味だったと思う。苦手で苦痛だと感じていたはずの人との関わりが、良くも悪くも刺激になっていたんだと気がつけただけでも、引きこもっていた生活には意味があったんだなと思っている。

 

だからと言って積極的に人と関わりたい訳でもなく。どうしたってエネルギーを人よりも消費しやすい質だとは思うから、なるべく省エネで適切に関わっていきたい。そのスタイルをとる時、特に気を付けたいのは人恋しさを不適切な関係性・場面において他者で埋めようとしすぎないということ。

省エネ引きこもり生活を送っていると、ふとした瞬間に寂しさに似たネガ寄りの感情が沸き起こってくる。それを普段懇意にしていない他者にぶつけても、相手から求めるだけの温かなものが返ってくる見込みはあまりない。普段から健康的に親密な関係を築けている相手であれば別だが、省エネ引きこもり生活を送っている者はそこをクリアできている相手が少ないと感じている。自分の肌感的に。

それは省エネ引きこもり生活を良しとし、他者との関わりを最低限にしようとする者の宿命なのかもしれない。人との関係性は、どうしたって自分の中での最低限よりももっと場数を踏んで、一見無駄にも思われる経験をもすることで深まっていくものだから、最低限の関係性である他者からは、自分にとっての最低限もしくはそれ以下のものしか返ってこないことは言ってしまえば当たり前のこと。

 

どんな生き方を選択するのも自由度が高い時代になってきたかもしれない。どんな生き方であってもその生き方には何かしらの責任が伴うこと、でもその責任をとりたくないと思ったら満足のいくとり方ができるような生き方に調節していくこともできるとも思っているから、ガチガチの考え方になってしまわないようにいろんな物に晒されて生きていきたい。

※ただし現実世界には持ち込まないこと

こんにちは、今日は夏の到来を感じさせるかのような暑い一日だったね。

 

先日のショッキングな出来事から数日経ち、引っ越し作業やらゼミの発表資料作りやらの些事に追われる中でだんだん心も落ち着きを取り戻しました。

そしてタイミングとしては良いのか悪いのか、ハチャメチャにタイプのキャラクターに出会ってしまい、今はとても満たされている。

 

そういう訳で、今回は私が好む漫画やアニメのキャラクターに共通することをタラタラ書きたいと思ってます。これはなかなか知人程度には明かせないディープな話題。

 

はじめに白状すると、最近出会ったどタイプのキャラクターとは超有名漫画「ワンピース」に登場するトラファルガー・ローです。ワンピースについては、幼稚園生の頃にアニメを欠かさず観ていたり、小学生時代に通っていたスイミングスクールの送迎バスの中で、なぜかボア・ハンコックが表紙を飾っていた53巻だけを繰り返し読んでいたりといった変な思い出がある。

 

そんなこんなで、現在は一から追いつくのは大変苦労するところまで物語は進み盛り上がっているワンピースだが、今年中にできるだけ楽しみながら追いつきたい。そう思うほどにはローというキャラクターが今アツい。

 

物語をほとんど知らない状態なので非常に表面的な部分でぶっ刺さってしまったわけだが、まずルックスが良い。

あんなにワイルドな見た目なのにクマががっつりあるところとか、ちゃんとは把握していないけれどタトゥーや服装の意匠が意味するところとか、見た目通りの内面ではないってところが大きなポイント。意外と重い男っぽいところが最大の魅力。

 

言語化してしまうとこんな文章量にしかならなかったけれど、私が好む漫画やアニメのキャラクターに共通することとして伝えたかった、「ギャップがあって重たい背景を抱えながら生きている」という点にマッチしているということだけ、伝われ、伝われ。

 

ギャップがあるというのは、擦られまくって擦り切れた例で言う「ヤンキーが雨の中子猫に傘を差しだしていた」みたいなことだけど、マイナスな部分(ヤンキーという怖さ)がプラスに転じる(猫に対して見せた優しさを持ち合わせている)というギャップよりも、プラスの部分がマイナスに転じかねないようなヤバいギャップがある方が好みだったりする。

 

ローに関してはどちらかというと前者のギャップではあると思うけれど、解釈によっては強くて頼りになるキャプテンが一人の人間を慕って長い年月抱え込んで生きているどころかその存在感は増すばかり、みたいな執念に近しい感情を持ち合わせているキャラクターであるともとれてしまう。私の受容器官がこじらせすぎかもしれないが。

 

そして、ただ暗い過去や背景があるといっても、それをバネにして乗り越えて強くなってしまったキャラクターにはそれほど魅力を感じない。もうその出来事は乗り越えてきた過去の1つとしてしか語られなくなるのはなぜか寂しく感じる。

暗い過去や背景をいつまでも引き摺って、時々飲み込まれてどうしようもなくなりながらも何とか生き延びているような、そんな生きづらさを抱えているキャラクターに魅力を感じてやまないわけだが、我ながら拗らせまくった嫌な人間性をしていると感じる。

 

好みのキャラクターをただ苦しませてキャッキャするのではなく、その苦しみをどう抱えて生きていくのかという過程を追体験して一緒に苦しみたい…みたいなある種倒錯した癖があるんだと思う。自分が分からなくなってきたし、これ以上分かりたくもなくなってきた。

 

精神的マゾヒスト、という言葉で簡単には表現できないどろっとした何かが根底にある気がするが、今回はもうここまでにしよう。さすがに気持ち悪すぎるから。

 

それでは。

本心など見えなくとも

こんにちは

台風一過で照りつける日差しから避けるため、カーテンは引きっぱなしの暗い部屋からお送りいたします。

 

今日は、初めて自分の根深い部分を曝け出した結果感情的に損をしたというテーマで。

 

基本的に、私の考えていること・感じていることはTwitterで綴っているけど、大学生になってから友人からの反応がとんと減ってしまったため、一度はアカウント自体削除したことがあります。やっぱり独り言ばかりだと悲しくなってしまったので。

 

しかし、去年はわずかな繋がりの望みすら絶つのは早計かもな、と思いなおしたので、アカウントを復活させてできるだけ会える内に遊んでおきたいと思った友人に連絡をした。我ながら諦めきれない執念深い性格をしていると思う。

 

結果はまずまずで、会えた人もいれば会えずじまいになってしまった人もいた。

でもおかげで充実した時期もあったなぁと思いつつ、今年も地元に帰ったら遊びに誘おうかなと期待していた。

 

ま、しかし昨日ちょっとショッキングな事態が発生し、ここ最近は息を潜めていた生来のネガティブな部分が大盛り上がりしてきたので、今年の夏を超えられるか不安になってきた。川に行ったら帰ってこれなくなりそうで。

 

私の根深い部分まで明かせるような関係性の人間は、いまのところただ一人しかいなかった。結果としてその人間とは今後会えなくなってしまったのだ。

 

表層的な感情としては、「弄ばれていたとしたら悔しい」とか「キープだったってこと?」といった疑問と不満が噴出しているが、根っこの部分では「私の人間性をひけらかすんじゃなかった」という後悔がある。

結局は自分自身の損得勘定めいたことを考えているので、これでよかったのかもしれないけどね。

 

私が根深い部分(ふんわりとした希死念慮やネガティブ・性悪なところ)を明かしたのはそれなりにその人間を信用し、自分と近しい部分があると感じていたから抵抗が少なかったということがあげられる。

それを、その信用を裏切られたような気持ちになってしまい、少しだけ他の人に対してさらに心を閉ざそうとしているのを感じている。

 

せっかく大学生になって自分を曝け出すことに抵抗がなくなって人との付き合い方も変わってきたのに、また一からやり直すことになりそうで。

それならいっそ。と思ったが、まだアカウントを削除するように死ぬには早計すぎる。しかも今度は復活ができない選択だから一層慎重にならなければね。

 

今度こそ、さよならを叩きつけて消えるのみ。