たぬきケーキを共に

ずっと水底から眺めている

全てを見透かせたなら

私は都合の良い人間として認識されることを恐れている。

 

ろくに外に出ず刺激のない生活を送っていると、どうしても自分の内面にばかり目が向いてよくない考えを巡らせがち。まさしく今がそのピークにあるっぽいから、ここに少し吐き出しておく。

 

大好きな作品の1つである米澤穂信作の古典部シリーズの中で、主人公折木奉太郎が省エネ主義をモットーとするきっかけとなった話がある。ざっくりと言えば、都合良く人に使われていたことに気がついてしまった、ということにあるんだけど、私も昔はそっち側の人間だった。

 

たとえば、小学生時代。特に家が近所であるとか仲が良いとかといった関係性ではない子に、中学校関係の諸々の手続きなんかの説明をするよう先生から言われたことがあった。

そして一番苛烈だったのは中学3年生。クラスにはいわゆる保健室登校者が3名もおり、なぜかその子たちの給食を運んでやったり、修学旅行でも一緒に班活動をするように仕向けられたりしたことがあった。

それについて担任から直接事情を説明されることもなく、当時の馬鹿な私も何も訊かず付き合っていた。

振り返ってみると、もっとそんなことがあったような気がして気が滅入るが、すべてに共通するのは「何か引っかかりを覚えた時に何も行動に起こさないこと」、そして厄介なのが「頼られることに快感を得ていたこと」であると思う。

 

1つ目については、引っ込み思案で波風を立てたくない性分が災いしていたが、最近は意識的に行動に移すようにしている。具体的には、アンテナを張り巡らして何かが引っかかったら一度自分の中で許容できることか否かのチェックをした後、許容できない、もしくはしたくないと感じたら断るようにしている。

そんな風に行動できるようになってきたのも、頼まれごとを断って終わってしまうような関係性であればその程度の関係性だ、と諦めがつくようになったことも影響しているのかもしれない。おかげで当時より人間関係ががっつり希薄になってしまったけど、凪のように穏やかに過ごせてきている。

 

厄介な2つ目については、上記の通り頼まれごとを断ることは人間関係の断絶、くらいに思っていた部分も影響していただろうし、過度に自分の存在を認めてもらいたがっていた部分もあったんだろう。いわゆる狭義的なレゾンデートルってものだけど、こんなもの生きていく上で別になくてもいいんじゃないかな。

仮に頼まれごとを全て断らない人当たりの良い人間としての存在としてのそれが達成されたとして、その存在は自分自身のためになるかといったら恐らくならないだろう。それは奴隷に近い存在でしかない。

今は、あんまりそういったものに囚われずに、瞬間の気持ちに素直になりたいというムーブがきているから、なおさら他人のためになんか身をやつしていられない。

そういうわけで、貴方の期待(退屈?)に応えてはあげられないというのが、私の回答になります。