たぬきケーキを共に

ずっと水底から眺めている

堂々巡りのしなやかさ

梅雨も明け、これからしばらくは果てしなく暑い日々が続いていく現実をぼんやり受け止めている、ようで受け止めきれていない皆さん、こんにちは。

 

猛暑日となると、天気予報の太陽のイラストが見たことない凶暴さを秘めた禍々しいものになることに最近気がついた。マリオ3に出てくるあの太陽への嫌悪感にも似た感情がふつふつと沸き起こってくる。あいつだけサングラスしているのもちょっと癪だ、眩しさの根源はお前自身なんだからサングラスの意味はないだろうし。

 

最近は穏やかに一日を過ごしていて、大学も週1だから実家で猫とのんびりしている日が多い。幸い昼夜逆転はしていなくて、運動不足が危ぶまれるくらいで特に不自由していない。

こんなのんびりできるのもあと僅かかもしれない、と思うと不安にもなるけど、この自由な期間が不安を増幅させているのは否めない。思い返せば、長期休暇とか、コロナ禍の生活で誰とも関わらず引きこもっていた時間の方が精神的には不安定気味だったと思う。苦手で苦痛だと感じていたはずの人との関わりが、良くも悪くも刺激になっていたんだと気がつけただけでも、引きこもっていた生活には意味があったんだなと思っている。

 

だからと言って積極的に人と関わりたい訳でもなく。どうしたってエネルギーを人よりも消費しやすい質だとは思うから、なるべく省エネで適切に関わっていきたい。そのスタイルをとる時、特に気を付けたいのは人恋しさを不適切な関係性・場面において他者で埋めようとしすぎないということ。

省エネ引きこもり生活を送っていると、ふとした瞬間に寂しさに似たネガ寄りの感情が沸き起こってくる。それを普段懇意にしていない他者にぶつけても、相手から求めるだけの温かなものが返ってくる見込みはあまりない。普段から健康的に親密な関係を築けている相手であれば別だが、省エネ引きこもり生活を送っている者はそこをクリアできている相手が少ないと感じている。自分の肌感的に。

それは省エネ引きこもり生活を良しとし、他者との関わりを最低限にしようとする者の宿命なのかもしれない。人との関係性は、どうしたって自分の中での最低限よりももっと場数を踏んで、一見無駄にも思われる経験をもすることで深まっていくものだから、最低限の関係性である他者からは、自分にとっての最低限もしくはそれ以下のものしか返ってこないことは言ってしまえば当たり前のこと。

 

どんな生き方を選択するのも自由度が高い時代になってきたかもしれない。どんな生き方であってもその生き方には何かしらの責任が伴うこと、でもその責任をとりたくないと思ったら満足のいくとり方ができるような生き方に調節していくこともできるとも思っているから、ガチガチの考え方になってしまわないようにいろんな物に晒されて生きていきたい。