たぬきケーキを共に

ずっと水底から眺めている

ぼっちに汎用性はあるか

 最近いろいろと考えることが多くて整理をつけたい、そんな風に思ったのでメモ帳代わりにここにつらつらと言葉を書き連ねていきたい所存。

 

 どうせ知人に見られることがないと思っているのでぶっちゃけるが、最近「友人」というキーワードで悩むことが多い。そんなんぶっちゃけたの内に入らんでしょと思われるかもだけど、今現在の悩みの多くを占めているんだから許してほしい。具体的な悩みは言わずもがななので割愛。

 

 SNS、とりわけTwitterをパトロールしていると「ぼっち」だとか「陰キャ」だとかを自称している人は意外と多い。もしかしたら私のアンテナがそっち方面に張りすぎている可能性もあるけど、よく観察していると「ぼっち」を自称している人が友人と出かけた写真なんかをドカドカアップしていることが往々にしてある。そんなときに思うのは、

 

「お前がぼっちを名乗るなよ。」

 

 実際にぼっちな人の多くは私と同じような感想を抱くのではなかろうか。頼む、私だけではないと言ってほしい。しかし、私とて嫉妬でジリジリとするばかりではない。「ぼっち」を自称する彼らが実際に「ぼっち」ではなかったことに怒りを覚える段階は過ぎ、最近は「ぼっち」を自称するエセ「ぼっち」な人はどんな意図で自身を「ぼっち」と評し公開しているのかということが気になっている。だんだん「ぼっち」がゲシュタルト崩壊してきたな。

 

 この問題はもしかしたら「オタク」を自称する人が増えたことなんかにも通ずるものがあるのかもしれないし、この先を考えるとすると本腰をいれて調べる必要が出てきそうなので、この場で自身の考えを述べることは控えようと思う。決して逃げたわけじゃないよ。

 

 ここで言いたいのは、こんなことをきっちりした根拠なしに思いつきだけでたらたらと喋れるような関係の友人が欲しいってこと。私だっていつまでも「ぼっち」でいたい訳じゃない。だからこそエセ「ぼっち」人が「ぼっち」を自称する理由を知りたい。「ぼっち」に何かブランド力みたいなものがあるんであればぜひ教えてほしい、参考にさせてもらうから。